タイムマシン、時間の超越だ。未来から過去へ、過去から未来へ自在に行き来する。
しかし、多くの場合、タイムマシンについて考える人は、観察者について考えていない。人間にとって、過去だ、ということは記憶があるということなのだ。目の前を流れる時間の連続性こそが時間なのだ。未来に行って戻ってきたときに、未来の記憶があるということは、私にとって未来は過去だということだ。
もし仮に未来に行ってきたとしよう。そうすると、あなたには未来の記憶があることになる。本当にその未来がやってきたときに、あなたは「あっ、これ見たことがある!」「これ知ってる!」と思うかもしれない。
だけど、こういうことならこれは単なる予言やデジャ・ビュなのではないでしょうか。
今目の当りの時間は経過していて逆戻りすることはない。それは一つの糸のように連続しているように見える。もしこの連続性を脅かすような出来事があれば、それは一種のタイムマシンであり、時間の超越と言えるのではないか。
もし人が2か所に同時に存在したなら。2か所の知覚を同時に持つことができたなら。
バイロケーションという現象が知られている。一人の人が2か所に存在するということだ。
ドッペルゲンガーということも言われている。こちらも全く同じような人が2か所に出現することを言ったものだが、ドッペルゲンガーの場合、その現象は外面から観察された事実しか言っていない。それは非常によく似た別の人かもしれないし、同じ人が2か所に存在しているのかもしれない。バイロケーションは明らかに2か所に存在することを言っている。
更に多くの場合、バイロケーションであっても外面から観察された場合に初めてその事実を認めている。でも、それは一面からの考え方だと思う。あなたがバイロケーションしてたらどうなるか、ということが抜けている。
多くの場合、バイロケーションが観察された人について言われているところでは、ある場所に居ながら別の景色を見ている。2か所の知覚を持つのだ。
ある意味その人は時空を超越したと言えると思う。経験が一つの線で流れていないのだから。
内的な沈黙を手に入れた人が2か所に存在すると言われている。多分、自然にほかの景色が見えるのだろうと思う。結局我々は自分のことや世界のことを判断するために自分が持っている思考の力をすべてこの世界に展開させてしまっている。父は何も判断しない。判断することは子に任せられたからだ。