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神を見る

先日から、あることに気づいた、乃至、考えているのだが、それを言葉にすることができない。見るということは、理解とは切り離して考えられない、法則の具現化なしにありえない、みたいなことなのだが、多分その意味は伝わらないだろう。

でも、やってみる。

 

たとえば「神」というようなものについて、その証左はどうやって得られるのか。漠然と神を信じている人はたくさんいる。しかし、「確認したのか」「見たのか」「知ったのか」と言われると、もどかしい思いをする人が多いだろうと思う。神というものはあると思う、信じている、そういう奇蹟的な出来事は体験した、しかし、直接に見たか・・・と言われると、それは無理ではないか。言葉にできないのではないか。

にもかかわらず、神を知る人はは、その直接的な体験を表す動詞として「見る」とか「知る」を使う。そして「お前がじかに見ろ」という表現をして、初めてその言われた人は自分に切迫することとして、それに取り組むだろう。

 

通常、「見る」というのは、映像を受け取ることだ。

しかし、神秘的な問題について「映像を受け取った」ということは、証拠にならない。

おじいさんの格好をした人が出てきて「わしゃ、神じゃ」と言ったとして「ハイ、神を見ました」とは誰も言えない。長い髪の白装束の女の人の映像を受け取って「幽霊がいました」とは言えない。そこには必ずある種の解釈が必要で、その解釈を強要される条件が必要になる。

神を知るその瞬間にも、別に特段の映像を受け取っているわけではない。山は山のまま、花は花のままだ。

にもかかわらず、我々は神を知る。ある日神を見る。何かが起こった。というか、現れ、顕わになった。どういうことなのか。

 

逆に「純粋に映像だけ」ということが人間の感覚について言えるものかどうか。映像を純粋化したものは、逆に絵画や写真や設計図だ。それはある理想である。つまり、この視点を仮定し、ここから光が来るものと仮定し、乱反射してなんだかんだをして、40cm×60cmのキャンバスにこのように像が結ばれるはずだ・・・という、一定の理論、一定の前提のもとに描かれだしたものだ。
しかし、我々が「見て」いるものは同じかどうか。

本当は網膜には神経の集まる点があって、水晶体がそこに像を結んでも、それは光の像として認識されず、我々自身が何らかの形でそれを補って認識しているということが知られている。これは「盲点」として知られている。絵画や写真には盲点はない。それはある理想、ある痕跡である。今日ただ今の目、「私」の見ているものは違うものだ。

我々にとって「そこにある」ということは「見る」ということと切り離して考えられられないはずのことなのだ。それはそうなのだけれど、そこには「映像を受け取る」という以上の何かがあるわけだ。

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