4月1日の統計で、島根県の人口は69万7489人となり、初めて70万人を割り込んだ。
しょっちゅう何らかの形でこうした事実を認識する。先日母が小学校・中学校の同窓会に行ってきた。母の世代では各村に一つずつ小学校と中学校があって、ほとんど続いていた。私の世代では中学校はある程度統合された。しかし、小学校の単位は今に至るまで大きく変わっていない。
私の時小学校の1クラスは24人だった。今は十数人といったところになっている。しかし、母の世代には私たちの世代の倍はあった。
島根県で唯一人口を伸ばしている市町村がある。隠岐の海士町で、一時廃校の危機に瀕した島前高校を魅力化しようとして、さまざまなプロジェクトを行い県外からも多くの生徒を引き付け、結果的に家族も含めて隠岐に移住した人々もいる。このことは大きくニュースでも取り上げられた。
自分もそこは思うのです。学校があるとか、若い人が来る理由がある町でないと、人口は増えない。
雲南市は4万人ほどの市であるが、毎年300人ほど自然減、100~200人ほどの社会的減がある。自然減というのは出生数と死亡数の差し引きで減っている人口で、社会的減というのは外部から入ってくる人と出ていく人の差し引きで減る数だ。雲南市は毎年400人ずつ必ず減っているのです。このまままっすぐ減れば100年で誰もいなくなる。現実には8000人なら市が維持できるなどということもないだろうし、現象の速度も一定ではないだろう。今の子供たちが大きくなるころまでに何の手も打てなければ、多分消滅するだろう。
自分としては、最後の最後は思想というか信念のようなものだと思う。
ロマンチック街道終点のフュッセンの町にノイシュバンシュタイン城というお城があります。真っ白で見栄えがして、ディズニーランドなどの童話に出てくる多くのお城などのモデルになった城です。実用的な城というものは、無味乾燥で、そんなに面白いものではない。きれいな城というのは、一種の贅沢だ。このお城を建てた時にも国は大変な赤字で、王様は散々な言われようだったとか。しかし、何百年かたって、今はその城があるおかげで世界中から観光客が押し寄せている。
宮沢賢治の話にも似たような話がありましたね。何の役にも立たないような杉の木をまっすぐに植えた場所がずっと残って公園になったみたいな。