関西方面で仕事があって、久しぶりに大阪の地下街を歩いた。朝コピーが取りたくて、KINKO’Sへ行った後、次の用事に行こうと思ったのだ、少し早いと思ったので、気が向けばコーヒーでもと思ってうろうろした。
DIAMORに抜ける道にあるドトールコーヒー。結局中には入らなかったのだが、オープンしていた。朝だから一部のコーヒー屋しか開いていない。御堂筋線の梅田駅のコーナー。以前はあそこにPanasonicのLet’s Noteのカラーのモデルが展示されていた。今回は創価学会の池田会長の本のディスプレイになっていた。
だけど、DIAMORのドトールの前を歩いているときにDIAMORのドトールがリアルであってもそれは大した意味はない。島根にいるときにDIAMORのドトールがリアルであるということを経験し、目の前のドトールとは別にリアルなドトールを思い出すことができると、目の前のドトールが実はそんなにリアルなものではないと感じることができる。京都や大阪にいるときは反対だった。大阪にいて、大阪の景色は当たり前だ。しかし、そこに突然何年か前の島根の景色がリアルなものとしてよみがえる。木次にいれば木次はリアルだ。そして多くの人がそれがリアルなものだと信じて疑わない。
目の前のごく平凡な現実、しかし、それは二度と思い出すのことのない、幻の景色かもしれない。世の中のことをそんなにリアルなものと考えてはいけない。