占星術をはじめたのは随分昔だが、グルジェフに興味を持ったのももはや四半世紀ほど前になる。
分かったこともある。
たとえば象徴に対する考え方などは、随分変わってきた。当時はぜんまいの時計を分解するようにひとつのコスモスを分解すると、ある象徴のようになるかのような、まっすぐ考えていた。九星やホラリーの考え、あるいは様々な人生の経験が、象徴の考えを現実的なものにした。
だが、あんなふうに分かるものだろうか。
ウスペンスキーの「奇蹟を求めて」のなかで、グルジェフは一通り惑星の影響を受ける部分、受けない部分について話した後、道を歩いていて杖を落とした。ある人は気がつかなかった。ある人はグルジェフが意識的に杖を落としたことが分かって、手を出さず、何が起こるか期待してみていた。ある人は杖が落ちたのを見たがほかの事を考えていた。ある人は拾おうと思ったが他の人が先に拾った。ある人は杖を落とすのを見て、拾って渡した。
「わかったかね。これが占星術だ。」
これは結局分からないままだった。いまだに分からない。
だが、先日からこの記事を書こうと思っていて、実際に書き始めて、初めてなんとなく分かるような気がする。そういう違いが存在するように思える。ある瞬間に違うように行動できるものだろうか。
月があるサインが、その人の行動を左右する。そのことだろうか。
考え始めるとまたふわふわとそのアイデアは逃げていくように感じる。