記憶に2種類ある。1つは、「先月15日に集会があった」というような、その出来事のデータを覚えているということ。もう一つは、その景色やにおいや音などに至るまで、その場のことを逐一覚えているということ。普通の人生は前者の記憶、データを覚えているということで成り立っている。しかし、それは大した意味のあることではない。そのデータの一覧が崩れれば、当然人は痴ほう症として扱われることになるだろう。
自分は若いころ、既にどっぷり「たわごと」に染まっていて、色々な説明を求めていた。カスタネダの書籍の中で、そうしたものに対する回答の一つが説明されているように感じていたのだが、彼が言っている「忍び寄り」という技術がよくわからなかった。重要なものだとわかる。それは人々に対する特別の行為だった。
(ちなみに忍び寄りはstalkingだと思うので、現在では所謂ストーカー行為と誤解される単語だ)
それを学ぶためにはどうしたらいいか?書物の中では、それを学んだ一人が、覚悟のために一人がやっと入れる大きさの木の箱を作り、その箱の中で人生のあらゆる出来事を回想したことが記述されていた。
まず、人生で出会ったおもな人をリストアップする。そして、それぞれの人と影響を与え合った大きな出来事から初めて細かいことに至るまで思い出すのだ。その回想は呼吸法と結びついているという。左に頭を回しながら息を吸い、右に頭を回しながら息を吐く。そうするうちに、過去の体験に含まれるネガティブな感情が浄化されていくのだ。これは心理学的なことのようだが、彼ら曰くそれはいわば魔術的な要素も含んでいるというようなことだったと思う。
よし、やってみましょう。二十歳そこそこで学生で比較的時間の自由な自分は、大工の息子であることもあり、角材とベニヤで自分が座れるぐらいの木の箱を作ることはできたのです。
そこで、箱を作って、箱の中で回想を繰り返すというようなことをやった。1回に入っていて、1時間も入っていると、汗だくになったり、息苦しくなったり、いろいろはいろいろなのです。だけど、とにかくその箱は自分は長いこと所持していて、ずっと箱に入っていた。
と、ねえ・・・
信じられないような記憶がよみがえってくるんですよ。ああっ?なんでこんな記憶を俺は持っているんだ?もう一度、人生でその場にいるかのように、その空間がよみがえる。それは確かに自分が経験したことだ。そして日常生活では決して呼び戻されることのない、詳細な記憶が呼び戻されてくるのです。
日常生活は、それはそれなりの連続性を持っていて、それが当たり前だと思っている。そこに違う空間が入り込む余地はない。だが、実はあの時の日常生活もそうだった。そして、それぞれの日常生活は、実は全く相いれないものなのかもしれないのだ。あのときはあれが当たり前だった。しかし、それは今の連続性とは違う。
吉本伊信の内観お同じですね。
私は内観でリアルな記憶が引き出されたとき
なぜか涙が止まりませんでした。
kenztszさん、こんにちわ。
そういうものがあるのですね。知りませんでした。
いい体験をされましたね。
ただ、その体験は真実なものであったにしても、今回の主題は多分違います。
あるいは、あなたがそういう体験からひょっとして漠然と感じておられることに具体的な説明を提供することができればいいと思います。