最近ちょっとロシア語もやり、ギリシャ語の勉強も進む中で、ギリシャ語のある特徴に気が付いた。
ギリシャ語には「誰」という単語がない。
日本語では単に代名詞だけではなく、動詞も違っている。つまり、英語でいえばisという単語も「いる」であるのか「ある」であるのかによって、それが人や生きたもの、たとえば動物なのか、それともただのものなのかがわかる。
英語ではWhoであるかWhatであるかによって、それが人かどうか判断できる。同様の区分がロシア語にも会ってкто(クト、誰)なのかчто(シト、何)なのかによって、人かどうかが判断できる。それからロシア語の場合、対格(英語でいう直接目的語、「~を」にあたる言葉)が、それが人かどうかによって多少変わる。同じ男性形の名詞でも、変化の仕方が変わってくるのです。
ギリシャ語ではτι(ティ、何)というのがあって、これはものなのだけれど、一般的に疑問代名詞は
ποιος(ピオス 男性単数) ποιοι(ピイ 男性複数)
ποια(ピア 女性単数) ποιες (ピエス 女性複数)
ποιο(ピオ 中性単数) ποια (ピア 中性複数)
となっていて、あと格変化があるのですけど、それでも人の場合と物の場合の区別というのはない。
たとえば部屋のノックがあって
ποιος είναι;(ピオス・イーネ)
といえば「誰ですか」というのは男性形だから人なのだろうということはわかるのです。
でも、厳密にはそういう疑問代名詞や関係代名詞は、単語の性数格を反映しているだけで、人かどうかはわからない。
たとえば女性にποια είσαι;(ピア・イーセ、君は誰?)ということは可能だが、たとえばποια είναι η απάντηση;(ピア・イーネ・イ・アパンディシ 答えはどれだ?)という場合でも「答え」という単語が女性名詞なので、同じ疑問代名詞で問いかけることができる。
これは、特に福音書とか宗教関係なんかの場合には思うことです。
多分、この表現は何か抽象的な概念を表しているに違いない、と思える場合がある。ある意味心理的に解釈できるような、ちょっと小難しい概念。
しかし、そうした場合でも、ほかの言語では、それが人を指しているという前提で訳されていることが多い。おまけに日本語の場合には敬語がくっついている。それが「ある」なのか「いらっしゃる」なのかは、解釈済みの判断を当てはめて訳している。おまけに、福音書の時代の人々はそういうややこしい概念をたとえを使って表すのが大好きなのだ。インド人みたいになかなかわかりにくい抽象概念を作り出すということを、当時の人はしなかった。地名や特定の人物や謎めいた短い単語を使ってしまう。
ποιος είμαι;
みたいなことをギリシャ人が言ったとしても、それは「私は誰か」という意味なのか「私は何か、つまり思考なのか、感情なのか、機械的な反応なのか、アートマンなのか」といった「何?」という意味合いで言ってるのか、その辺は多分ギリシャ語の場合には幅があると思うのです。