コーヒーを入れるつもりで、お湯を沸かして豆を挽き、ポットを探すとポットがない。いつもミルと豆とドリップポットなどと一緒に黒い盆の上においてあるのだがない。キッチンの上に出したかと思うと、ない。テーブルの上にもない。誰かがどこかにやったのだろうか?関係ない人にあらぬ疑いをかけたりする。
ところが、その盆からわずか数十センチ横の電子レンジの上に横向きにおいてあった。しかもそれは自分が置いたのだ。
盆の場所からキッチンまでわずか2~3m、テーブルもそんなもので、キッチンと平行においてある。3歩もあるけばなんでもできる狭い空間なのに、わずかにいつもの場所から数十センチ離れているだけで「ない!」と思ってしまうのだ。
私たちは物の空間があると思っているが、本当は意味の空間があるだけだ。物があって物の空間があってその物に我々が意味を与えているのではなく、意味の空間があって、われわれが意味を与えると物は物になるのである。
全く新しい環境に飛び込んだとき、そのことは混乱を引き起こす。
きれいなオフィスで働いていた人が突然バーか飲食店で働き始める。
「そこのゾンビ3つ取って」
と、言われても、たぶんまず何がゾンビなのかわからないかもしれず、ゾンビが何か分かったとしてもその店でどれをゾンビと呼んでいるかわからないかもしれず、そしてゾンビが置いてある場所もわからないかもしれないのだ。それは農村でも起き、会社でも起きる。外国のような違う言語圏に行っても起きる。
意味の空間自体には、たぶん大した意味はない。たくさん作って、捨てたらいい。
それがなければ、人は謙虚になる。ある場所では、ここからうまい水が出て、あそこからいいコーヒーが買えて、こういうポットがあって、マスターとか呼ばれて、ある一定の役割を果たす。そこでの常識は一種の仮面であって、その人のものではない。
人生でその人の手に残る、最後の残り物はなんだろう。金か?神か?愛か?しかし、場数を踏めば、ある状況が絶対といえないということは徐々にわかってくると思うのだ。