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福音書

聖典の解釈には、必ず一から解釈しようとする人が出てくる。つまり、とりあえずは何もわからない。そこで一つ一つの語句を追いかけてこう書いてあるからこうだ、という風に考えるものだ。

 

しかし、残念ながら福音書は一年生用の教科書ではない。文法のテキストでもない。

 

福音書を読むときには、すでに探していて、何かを見つけていて、「んっ?ここに書かていることは、ひょっとしてあのこと?」と思っていないといけないのだ。

 

一から解釈するということの意味をあなたはわかってくれるでしょう?

その「ひょっとして、このこと?」という思い当たる節がない人にとって、福音書の話は荒唐無稽そのものに見えると思う。

 

本当にキリストが行った奇蹟については、これは理解するのは難しいことだと思う。たとえば手を置いて病人を癒した、とか、水の上を歩いた、というようなことだ。私が言いたいのはそうではなくて、キリスト教の中心的な考えをなしているいくつかのこと、たとえば最後の審判、人の子の日、神の言葉、種まきのたとえ、などなどだ。

それを字面を追いかけていくうちに、要するにおじいちゃんやおばあちゃんが生まれるずっと前に神の言葉というものがあって、その人は2000年前に一度やってきてこの世を救って、いつか戻ってくるんだけど、その時にはこの世が滅ぼされて、悪い人は滅んでよい人だけ残る、みたいな話になってくる。

 

大事なことは、福音書を読んだ時に、全く想像がつかないということではダメだということだ。

人の子の日だと?ひょっとしてこれはあのことを言っているのではないか?

そういう風に思えなければ、福音書はまだ早いのだ。

 

わかったから偉いとか、そういうことじゃないんですよ。誰でもわかることなんですよ。そして、人々は誰でも当然わかるはず、と思って読んでいない。どこかの我々には知る由もない偉い預言者が、我々に知る由もないことを書いたとみんな思っている。もしそうなら、その時点で福音は失敗じゃないですか。我々が救済されないと福音の意味を果たしていないんだから。

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