解釈をすることなく知覚することはない。
通常、人はこう考える。そこに物がある。これが現実だ。私はここにいる。そして、私はそこのものを見る。そして、それに解釈を与えるのだ。
そして、そこのものは確固としてあり、現実は現実であると考える。
しかし、本当は解釈なく知覚するということはない。
何でこういう話なのかというと、いわゆる幽霊を見た、みたいな話の場合ですよね。
そこで「幽霊を見た」というためには、髪の長い女の人が立っているのを見るだけじゃダメなわけだ。それじゃ、幽霊を見たことにならないじゃないですか。髪の長い女の人が立っているのを見て、あっちを見て、振り返ったらいなかった。だけどそれでも幽霊だということにはなりません。
そこで、本当はそこにいないはずの人を見た。あの人は死んだはずの人だと思えばこそ、「この人は幽霊だ」と思うわけです。
しかし、多くの場合、物や世界はリアルなものとしてあって、それを見て、解釈をそれに与えているのだ、と人は考える。
だけど、それは間違いですね。
もし心が沈黙したら、物は物のままだと思うじゃないですか。世界は世界のままだと。しかし、そうじゃない。心が沈黙すると、世界もまた崩壊する。
では世界にはもともと解釈はないのかというと、そんなことはなくて、沈黙の世界から人は言葉を取ってくる。